耳コピとスクリプトなしリスニングは似てる?
僕は歌の伴奏目的でギターを始めたこともあって
タブ譜というものを自分から買ったことがない
というかそもそもタブ譜が読めない
だからエレキギターを弾くようになっても耳コピだけしか使わなかった
「耳コピしかしない」と話すと
タブ譜派に
「それじゃ、できることしか学べず、できないことができるようにならない」
と力説されたことがある
タブ譜には耳では聞き取れないレベルの細かい音がたくさん載っているし、
そもそも人の耳でできることなんてたかが知れてる
ということ
おっしゃる通り
だけど僕は
タブ譜がない時代の人たちは耳コピで学ぶしかなかったこと
そして耳コピだからこそ足りないところをオリジナルで補うようになると思っていて、
耳コピをやめなかった
最近になって
ふと思ったのは
これって英語とも似てるなということ
映画でもなんでもいいんだけど
僕は英字のスクリプトを参照しないことも多い
初めはなんとなくしかわからないし
何回も何回も繰り返し見ても
今現在、わかる英文しかわからないのかも知れない
逆にスクリプトを見れば
「ああ、こういうことを言ってたのか」
とわかることも多いと思う
でも、なんか、
こういう非効率(?)なやり方が好きなんだよな…
もはや性癖っすねw
なんか、今思ったんだけど
耳コピにしてもリスニングにしても
僕の中の「ガンコ親父哲学」みたいなものなのかも知れませんね
効率の良さを求める人を否定しないけど
僕自身が選ぶものは多くの人が非効率と考えることが多い
お金と時間についての考え方も同じ
(優秀な経営者を含めて)多くの人はお金より時間の方が大事だから
お金で時間を買うべきだという考え方だけど
僕は真逆
なぜならお金を使わないことで頭を使うようになるから
頭を使えば、ほとんどのことはお金を使わずに解決できる
それが短期的に見て非効率だったとしても
そして僕は効率の良さについて
そもそも考えてないということにも気づきましたw